ライフストリート

ライフストリートへようこそ

職業指導の歴史

職業紹介・職業指導は社会運動のひとつとして、19世紀末から20世紀の初頭にかけ、米国で起こった。

20世紀初頭、米国の鉱工業生産は世界トップとなった。しかしそれは急激な成長によるものであったことから、米国社会は多くの歪みを抱えることになった。特に工場労働者、賃労働者の急増、都市への人口集中、さらには移民労働者の大量流入による多民族化(米国が今日の多民族国家となった理由のひとつが、この当時の急激な米国の工業社会化である。)による差別の激化、失業、貧困、都市のスラム化などが問題となった。これらの問題に対応することが米国社会全体として求められた。

多様な対応が求められることから試行錯誤がなされたが、職業の点で、初めてそれに理論的根拠を与えたのはF・パースンズであった。パースンズは、実践と経験に基づく職業紹介と職業指導を行った。その内容は「特性因子理論」、世界で初めての職業紹介・職業指導の理論として2018年現在に至るまで有効な理論として定着している。

日本での職業指導は、米国より大正時代に輸入されたことに起端する。1920年には、公設の専門機関、大阪市立職業相談所(後の大阪市立中央職業紹介所)で、翌1921年には、東京に中央職業紹介所が新設され、さらに職業紹介法が制定された。また、職業指導の要は学校であることから、1922年ごろから各学校での就職指導が始まり、その指導員の養成が重視され、1924年には東京高等師範学校において、日本初の職業指導の講義が始まった。

1926年11月、文部省訓令第20号「児童生徒ノ個性尊重及職業指導に関スル件」および次官通牒が発令され、学校での職業指導における指針・内容が明示された。これに基づいて、学校に向けての児童生徒の適性を考えた職業指導の啓蒙がなされた。しかし、第二次世界大戦が近づくにつれ、戦争のための労務計画に基づく強制的な労働人材の振り分けがなされるようになり、いわゆる滅私奉公に向かうことになった。1943年に国民学校で「職業指導科」が設立されたものの、もはやそのころには戦況悪化により授業どころではなくなっていた。

第二次世界大戦後の1948年、「職業科」が発足し、職業指導が行われ始めたが、1949年5月には「職業・家庭科」とする通達が文部省よりなされた。1951年の学習指導要領改訂により、職業・家庭科での職業指導の役割は、特別教育活動(後の特別活動)に徐々に移っていった。1953年には各学校に職業指導主事を置くことができるようになったが、ここで財政的な事情により、職業指導の教員免許がなくても教員免許を有するものであれば誰でも職業指導主事に任命できるものとされ、さらに1958年の学習指導要領改訂で、中学校で、職業・家庭科が「技術・家庭科」とされ、職業科は消滅、職業指導は進路指導と名を変えて、全教員によって実施されるものとされ、教育職員免許法上、職業指導の免許はあるが、特にその免許をもっていることを要求する教員採用数が激減することになった。そしてこのことが後に、特に中学校、また高等学校(主に普通科)での、深刻な職業指導の素人化を招くことになった[2]。

2017年11月の教育職員免許法改正において、小・中・高等学校の教員免許の取得要件に「進路指導およびキャリア教育の理論及び方法」が追加され、全教員に進路指導の専門知識を持たせることが義務付けられ、全ての小・中・高等学校学校に職業に関する専門知識を持った教員の供給がようやく開始されることになった。



ウィルウェイウィルウェイウィルウェイウィルウェイウィルウェイウィルウェイウィルウェイウィルウェイウィルウェイウィルウェイ